『 玉虫の羽 』  


芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の続編として 

『 玉虫の羽 』    

     Hoten Hitonokoe 





   


ある夏の日の朝のことでございます。

お釈迦様はまた一人で極楽の蓮池のふちをぶらぶらとお歩きになっていらっしゃいました。

お歩きになりながら、お釈迦様はあることをお考えになりました。


そういえば、あのカンダタはどうなったのじゃろうか

地獄の血の池の中に、石のように沈んでしまってから、もうかれこれ百年たつが

まだあそこで蠢(うごめ)いているのじゃろうか 

それともまだ沈んでいるのじゃろうか 

もしも沈んだままでいるとしたら、それはあまりに不憫なことじゃ

なんとかしてあげたいものよのう


そうお思いになりましたから、お釈迦様は蓮池の蓮の間から中をお覗きになりました。

極楽の蓮池の遥か底には地獄があるのです。

覗き込むと、相変わらず地獄は月も星もない暗闇にひっそりと包まれており、

ところどころに針の山や血の池や煮えたぎった湯釜といったおなじみのものが見えました。

しかし、肝心のカンダタの姿はどこにも見当たりません。

お釈迦様はがっかりされました。

けれどもその代わりに、カンダタの娘のウタタがお眼に留まりました。

血の池の中で蠢いている様子です。

このウタタはカンダタと一緒になって、筆舌に尽くしがたいほどのあらゆる悪事をしましたが

ひとつだけ、良いことをしました。

子熊を助けたのでございます。

罠にかかって弱りきっていた子熊を元の山奥へと逃がしてあげたことがあったのです。

このことをお釈迦様はちゃんと覚えていらっしゃいましたから

このウタタをなんとか地獄から極楽へと引き上げたいとお思いになりました。

幸い、側(そば)を見ますと、一匹の玉虫の羽が二枚あります。

お釈迦様は二枚の羽を御手に取ると蓮池の蓮の間から、そっと地獄へとお落としになりました。





こちらは地獄で弱りきっているウタタでございます。

なにしろこの地獄へ落ちてからというもの、三百年もの間

昨日は針の山、おとといは煮えくり返った湯の釜、その前は石臼で轢かれ    

そして今日は血の池と、毎日毎日日替わりで鬼どもに仕置きをされるのですから

それはそれはたまったものではありません。

すっかり疲れ切ってしまったウタタは血の池に、ただぼうふらのようにぷかぷかと浮きながら、

ぼんやりと宙を見やっておりました。

すると、何気なく見上げていたはるか頭上から、二枚の羽がきらきらと煌きながら

こっちに向かって落ちてくるではありませんか。

この二枚の美しい羽はこちらに近づくにつれてみるみる大きくなって、

人間の体ほどの大きさにまでなりました。

これを見たウタタは思わず小躍りして喜びました。

この二枚の羽を上手に使えば、きっと飛べるに違いありません。


ウタタは両方の手を伸ばしてしっかりと二枚の羽を手にすると

器用に使って鳥のように羽ばたきました。

すると、ふわりと体が宙に浮かんだのでございます。


「ああ!! 飛べる! 飛べる! 飛べるわ!」


ウタタは嬉しくて嬉しくて、

ここに来てから三百年もの間出したことないような声で思わず叫びました。



なんて素敵なの なんて気持ちいいの


ウタタは二枚の羽を自由自在に操って、地獄の空を上へと上へと飛びました。

羽ばたくたびにぐんぐんと勢いよく上昇します。

先ほどまでいた血の池はすっかり小さく見えているだけになりました。

もう鬼どもに針の山に追い立てられることもなければ

血の池に沈められることもありません。

石臼で轢かれることもないのです。

ウタタは嬉しさのあまり、全身を震わせました。

この調子で懸命に羽ばたいていけば、極楽へ入って行くことも出来るに違いありません。

そう思いましたから、ウタタは夢中でとにかく上へ上へとひたすらに羽ばたきました。






どれくらい時間が経ったでしょうか。

かなり長い間、頑張った甲斐あって、

足の下に広がっていた地獄の景色はすっかり見えなくなっています。


極楽に近づいているんだわ


ウタタはそう感じました。

それが証拠に、次第に周りが明るくなってきました。

地獄からは見えなかった真っ白い雲まで現れました。

さらに、かすかに極楽の蓮のずいからあふれ出す、

あのなんともいえない良い香りまで漂ってきています。

ウタタは嬉しさのあまり、はらはらと涙を流しました。


ウタタは良い香りのする方へ良い香りのする方へと懸命に羽ばたきました。

すると、突然、目の前が眩しいくらいにさらに明るくなりました。

まるで、幾千もの光が一斉にこちらを照らしているかのようです。

眩しさをこらえながら、よく眼を凝らして見ると、ほんの二、三軒ばかり先に

蓮の形をした金色の極楽の入り口の扉が手招きをするように開いていました。


あれだわ あれだわ  

あと少し  あと少し


ウタタは最後の力を振り絞り、無我夢中で羽ばたきました。

そして、極楽の扉の中に入り込もうとした・・・

まさにそのときです。



声が聞こえました。 

はるかはるか下のほうから声が聞こえました。


助けてくれ 助けてくれ 俺たちも連れて行ってくれ

助けてくれ 助けてくれ 俺たちも連れて行ってくれ


振り返り、はるか下を見ると、地獄の底の血の池で、

罪人で泥棒仲間のガリレオラファエロがこちらに向かって手を伸ばして叫んでいました。


助けてくれ 助けてくれ 連れて行ってくれ

助けてくれ 助けてくれ 連れて行ってくれ


なおも、ガリレオラファエロは苦痛に満ちた叫び声を上げています。

これには、ウタタも迷いました。

かわいそうにと思って、つれて行こうともしました。


でも、この羽はあたし一人分しか運べない 

二人も乗せたら自分まで落ちてしまうに違いない


ああ、ガリレオ 

ああ、ラファエロ

恨まないでおくれ


「ごめん 

 あたし一人で極楽へ行くから

 あたしだけが幸せになるから

 あなたたちの分まで幸せに暮らすから

 あなたたちはそこであたしの幸せを祈っていて!!」



そう叫んだ、そのときです。



それまでなんともなかった羽が、まるで淡雪のように消えてしまったのです。

こうなるとひとたまりもありません。

ウタタはただ両手をばたばたとばたつかせながら

くるくるくるくるこまのように回りながら

再び地獄へと、まっさかさまに落ちて行ってしまいました。




事の一部始終をご覧になっていたお釈迦様は

ウタタがほかの罪人たちとともに、血の池の中に沈んでしまうのをお見届けになると

深い深いため息をおもらしになりました。


「おお、なんということだ

 あの羽にはとてつもない力があったのに・・・

 一人どころか百万人もの罪人を連れて飛ぶことができたのに・・・

 大勢の仲間を極楽へ連れて行くことができたはずなのに・・・

 それをなんと言う身勝手で無慈悲な早合点をしおって・・・

 無慈悲な者は極楽へは入れないのじゃ

 なんという愚か者よ

 なんという哀れな者よ」


お釈迦様は目に涙をお浮かべになりながら、悲しそうに、そうおつぶやきになりました。





地獄の血の池は、月も星もない真っ暗闇の中で

また元のとおりにひっそりと静まり返りました。

一度、血の池の中に石のように沈んでしまいますと

再び浮かび上がるのに、また何百年と時間が経ってしまうのです。

そうなると、その間は生まれ変わることも出来ないのです。


ああ、哀れなウタタ

哀れなガリレオ

哀れなラファエロ・・・







しかし、その一方で極楽の世は、そんなことにはちっとも頓着しません。

極楽ではいつでも愉快なことが続くのでございます。

奥の食堂からは絶え間なく、良い匂いが漂ってきます。


「ほう、なんともいえない美味しそうな匂いがする。 

 今日はカリイなのか。

 わしは生まれ故郷の味の、鶏のカリイライスが大好物じゃてな。

 これは嬉しいのお。 

 ほっほっほっ ほっほっほっ」


お釈迦様はそう楽しげにお笑いになると、食堂へとお急ぎになりました。

どうやら、極楽はお昼になったようでございます。




なお後日、つかえている者に尋ねたところ

お釈迦様はカリイライスを、十五杯もお召し上がりになったそうです。